波田21区町会の拓魂祭が開催されました

Aya

2017年10月29日 22:07

今日は雨の降る中、
波田21区町会の拓魂祭が開催されました。


21区町会は満蒙開拓団として満州に渡った方々が、
終戦後に命からがら帰国して開拓した集落が始まりです。

昭和21年、開拓農業協同組合発足が義務づけられ、
23軒が居を構えました。
1戸当り1丁7反分配され、
飲む水がなく、道路もない中、自分達で山を開拓。
その後組合は解散しましたが、
昭和47年から歴史を遺そうと、
拓魂祭が開かれるようになりました。

電気も水道も食べるものも無い中で、
必死に生き延びた先人たちの苦労を偲んで、
子孫の男性が、
「国策で振り回された結果、
過酷な人生を歩むことになった当時の事実を、
もっと多くの人たちに知ってほしい」と言っていたのが印象的でした。

満州での体験談を語れる人はもう二人しかいないのだそう。
Iターンで20年ほど前に移住した同じ町会の方が、
何とか記録を残そうと頑張っているようです。

かつて、そのお二人から体験談をお聞きしたことがあるので、
先達への敬意を込めて、
そのお話を以下に記します。


ソ連軍の侵攻により、
暮らしていた本部からノウカチン部落への移動を余儀なくされるも、
すぐに本部に戻されることとなる。
ソ連軍の侵攻に際しては、
30名以上の女性や子供が男性の手で殺され、火をつけて集団自決した人たちもいた。
集団移動中、食料が尽きて家族同然の馬を一軒ずつ差し出して順番に殺して食べた。
歩けない老人は残さざるを得なかった。
同じく、長距離歩くのが辛くてグズる幼子は手を合わせてその場に残さざるを得なかった。
老人は「連れていってくれ」と頼み、
幼子はギャアギャア泣きながら親についていこうとする。
それを後に残して出発する辛さはどれほどであっただろう。

強奪に遭い、警察から晒された者は石をぶつけられて殺された者もいた。
衛生状態が悪く、腸チフスで亡くなる人たちも多かった。
現地ではシラミが大発生。
医者もいない、薬もない。

ノウカチンでの冬は-30度の極寒。
着るものがないから、皆、亡くなった人の着物を剥がして着た。
生死を分けたのは、運もあるが、暖を取れたかどうかが大きい。
また、いかに現地の人たちと交流があったかどうかも重要。
仲の良い現地人がいなければ、どんな目に遭っていたかわからない。

火を焚く元気があるうちはいいが、
徐々にその元気もなくなっていくと、死が近づく。
冬場の死体の処理には皆が困った。
外に積み上げていくだけで精一杯。
暖かくなると、それが異臭を放つだけでなく、溶けだす。
その光景はあまりにも凄まじく、今まで話すことができなかった。
今でも頭にこびりついて忘れられない。

先に帰れた日本人は偉い身分の家族から。

召集令状で出征した父は、子供の教育だけは何とかしてくれ、と母の手を固く握って行ったという。
(後に、捕虜として亡くなったことが判明)
今でも、この事を話そうとすると動揺して涙が出る。

どんなに困っても、努力して働けば何とかなる、
頭であれこれ考えるより、
まず体を動かして働いてから後で考えよう、という教訓で生きてきた。
あの経験は二度としたくない。
(と、締めくくられました。)

忘れてはいけない、日本の歴史です。
私自身への記録も兼ねて記載しましたが、
多くの方に読んでいただきたいと願います。

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